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世界の終わりには君と二人で。

社会人のヲタクがA.B.C-Zを中心に色々とお伝えするブログです。今までの経歴などは→http://profile.hatena.ne.jp/blue_rendezvous/

藤田ニコルの発言から考えた、自分と向き合うということ

「Invisible TOKYO #4」

少し前に、Amazonプライムでみられるインタビュー動画「Invisible TOKYO #4」を見た。

https://www.amazon.co.jp/dp/B01IAI1EV2

 

 動画全体のコンセプトとしては

『目に見えない世界』 現代のトーキョーのエッジである“ガールズ文化”を生み出しているアーチストや実業家、ファッションモデル達が毎話登場し、彼らの戦略的思想とエンターテイメントの繋がり、彼らだけに見えてる風景、その独自の視点に迫ります。


とのことで、#4はファッションモデルの三吉彩花藤田ニコルだった。
 彼女たちのインタビューや、ファッション誌のエディター、ディレクターの話から見えてくるのは「等身大」というポイントだった。

 

 

「等身大の自分」を表現

 一番しっくり来たのが「昔は雑誌のコンセプトに合ったモデルを起用し、雑誌のブランドを表現していた。今はモデルのファッションや個性に雑誌がスポットを当てて表現する。ドキュメンタリーを作っているような感覚だ」というファッションディレクターの言葉(意訳あり)。
 今やSNSの影響で発信力を得たモデルたちは、そのモデルの好きなものや信念を次々と世に打ち出している。そこにユーザーがあこがれや共感を持つ。そんなコミュニケーションが確立されていく中に、従来の雑誌にあった「ブランドが売り出したい服」や「雑誌が推したい広告物」といった「意図」が入った瞬間、媒体としての信用をがくっと失う。だから、今はモデルも企画段階から参加して、彼ら彼女らも仕事として全力で楽しめる紙面を作ってるらしい。


 なるほどな、と素直に思った。確かに、今は女優やモデルがさらっと「すっぴん」を晒す。少なからず5年くらい前は、そんなことご法度だったような気がする。いかに「飾らない自分」を表現できるかが、今の芸能におけるポイントなのかもしれない。

 三吉彩花藤田ニコル(特に三吉彩花はとても言葉足らずだったけれど)「いかに自分を見せられるか」「好きなことを貫くのがかっこいい」と言っていた。
 若いのに、すごい。それがたとえ台本があったとしても、20才くらいの女の子が「自分」に素直に向き合ってる姿が、確かにかっこよく見えた。

 

 

自分とは何かを考える

 思えば、今私たちは「自分で考えること」をひどく求められているように思う。
 自分が何が好きで、何が嫌いで、何がしたくて、どうありたいか。
 昔は「みんなと同じ」ならばよかったのだろう。流行にのって同じものを好きになって、とりあえず就職して結婚して生きていけば、よかったのだろう。


 でも今は、そんなことが正しいなんて誰も思ってない。物が溢れすぎていて、1年後にはすぐ新しいソリューションが生まれていってしまう怒涛の世の中。そして、どんどん景気が悪くなり未来がぼんやりと薄暗くなっている世の中。
 無意識のうちに、特に若い人たちは未来なんて楽しくないと思ってるんじゃないだろうか。だから、「今後悔しない生き方」を深く深く模索している。未来が楽しくないのならば、せめて今を楽しく生きたい。
 そのためには、「今何がしたいか」「今何が好きなのか」を自分の中で問い続けなければならない。
 ただそれは難しい。だから、その全力で自分を等身大で表現する人たちに今多くの人々は興味をもって惹かれているんじゃないだろうか。

 

 

凡庸であるということ

 私は、まるで自分が分かっていなかった。小さいころから飽きっぽく、自分で物事を考えるのが苦手ですぐ周りの人に意見を合わせていた。自分が本当は何がしたいのかなんてわからない。ただ、将来への不安や焦燥感、そして「まっとうに生きねば」という使命感に駆られながらずっと生きてきている。だから正直就職活動はうまくいかなかったし、いまだに自分の本当に好きな色もわからない。

 

 だって、考えれば考えるほど「自分が凡庸なこと」がわかってくるから。自分は「やればできる子」だと思っていたい。特別な感覚や才能や思想を持っているんじゃないだろうか。いつか特別な人になれるんじゃないだろうか。そんな自分への傲慢な希望だらけ。
 …ただ、意外と自分はそこまでぶっ飛んだ生き方ができる勇気がないことも薄々わかってる。自分が好きなものを突き詰めれば突き詰めるほど「凡庸」であることが浮き彫りになる。それが良いか悪いかの話ではない。凡庸じゃない自分に憧れていたのに、そうじゃない、という事実が少し寂しいだけ。

 

 でも、私は一方、「凡庸」なことなど何もないことも分かっている。凡庸なことでも、それをいかに明確に突き詰められるかがポイントなのである。それが「自分」であり「特別」「個性」なのだ。
 わかってる。わかってるのだ。
 

 

好きなものに向き合う力

 だから、「Invisible TOKYO #4」を観たことをきっかけに、最近重い腰を上げてようやく自分と向き合い始めた。好きな色の入った画像をひたすらに集めたり、好きな洋服をクリッピングしたりしている。音楽も好きなもののツールを学び、それがどういう分類になっているのかを分析している。少しでもやりたいことがあったらそれをリストにまとめている。ピアノをもう一度弾いてみたい、とかそういうレベルのもの。
 自分が凡庸であるか否かの判断については、いったん頭の隅に置いておいてとにかく自分に忠実であろう。その忠実さを可視化しようという試み。


 そしてわかってきた。私はピンクや青、紫が好き。ジャズフュージョンが好きで、その根源はなんと小学生の時に聞いていたSMAPの初期アルバムだったということ。私は演劇や映画やドラマが好きだということ。でもバッドエンドは大嫌いということ。家事には向いてないということ。東京が大好きだということ、好きな男性の顔は馬面だということ…。

 

 可視化したところで何かが変わるわけではない。特別なことなんて起きないし、飽きっぽいのは変わらないし、心のどこかで「私の人生を誰かにゆだねたい」という他力本願の思考は消えてない。


 ただ、なんとなく「削がれてきた」気はし始めている。好きなものだけを見つけられる集中力や発見力のようなものだ。
 ここから凡庸になるのかそうでなくなるのかは今は考えない。
 自分が何者であるのか、等身大の自分の型を一つ一つ針でくりぬいていくような、そんな生活が始まっているのだ。